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2004.9.30(木) 新しい道具

僕が写真を始めた頃、写真の世界ではちょっとした革命が起こりつつあった。キヤノンが、イオスという新しいカメラを発売したのだ。
なぜ、それが革命だったか?というと、イオスのオートフォーカスの性能が、非常に優れていたからで、オートフォーカスというのは、カメラが自動的にピントを合わせる機構である。
オートフォーカスが登場する以前は、ピントはレンズのピントリンクを回して、必ず自分の手で合わせたものだった。
イオスの登場以前にも、ミノルタのカメラには比較的優れたオートフォーカスの機構が組み込まれていたが、イオスのそれは、ミノルタよりも数段上の性能だった。将来は、他社もすべてイオスの仕組みを真似をせざるを得なくなるのでは?と、直感的に感じさせるものだった。
また、議論も巻き起こった。
オートフォーカスがいいという人。そんなものは使えないという人。オートフォーカスでは撮った満足感が湧かないという人も少なくなかった。だが今は、カメラという機械が好きな機械マニアをのぞいて、撮影や写真が好きな人は、もうそんなことを言わない。
オートフォーカスは当たり前の機能になった。
新しい物が出てくると、必ずそれを否定したがる保守的な人が一時的に現れ、そして見事に消えていく。今は、デジタルカメラを否定したい人が、それに当たるだろう。
例えば、
「デジタルカメラは便利すぎて、撮った満足感が湧かない。だからフィルムだ。」
という。だが、便利なものが嫌なはずのその人が、最新のフィルムカメラを使って、オートフォーカスや手ブレ防止機構などの便利な機能をフルに活用して写真を撮りたがっていたりする。
また、中には、
「デジタルカメラはどんどん新しい物が出て、すぐに古くなってしまうので満足できない。だからフィルムカメラだ。」
という人もいる。だが、それは、フィルムカメラがほとんど進歩をしていないということでもある。進歩をしない道具を持ち、それが古くならないというのは屁理屈に近い。
そんな屁理屈をつい言ってしまう人は、恐らく内心葛藤しているのだと思う。
(撮影機材の話)
新しい機材を導入することになった。僕が現在使用している超望遠レンズは、何れもオートフォーカスではない古いものなので、ニコンのAF-S600ミリf4の2型を購入した。飛んでいる鳥などを撮影する際には、オートフォーカスは抜群の威力を発揮する。
新品は120万円なので、中古を探して50万円台のものを見つけた。50万円台は、中古の相場としても格安だし、どんなボロボロのものが届くか戦々恐々として待ったが、ほとんど新品同様が届いた。
恐らく、中古の商品として販売店が仕入れたものではなくて、委託販売という形で、売りたい人がお店に預けていたものではないか?と推測する。中古市場の相場ではなくて、その人が、自分が欲しい額をつけたのだろう。レンズだけでなく、専用のレンズを収めるバック他、別売りのアクセサリーがたくさん付属して届けられた。
今シーズンは、冬場に野鳥三昧を味わいたいのだ。
今月の水辺を更新しました。
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2004.9.29(水) イカガワシイ写真

以前の話だが、僕の写真が掲載された写真雑誌を購入したおばさまが、
「本を買うのがとても恥ずかしかったのですよ!」
とおっしゃった。たまたまその号の特集がヌードだったのだ。
僕が主に仕事をしている自然関係の雑誌には、滅多にイカガワシイ写真は掲載されないが、一般的な写真雑誌には、ヌードが掲載されることも珍しくない。
だが、もしも人間のものでなければ、自然雑誌にはもっとすごい写真が掲載されることもあり、交尾の写真などは、その代表的な例だ。
今日はカタツムリの交尾シーンを、最初から最後まで完璧にのぞきみして、写真におさめることに成功した。交尾はこれまでも何度か撮影しているが、2匹のカタツムリが出会うところから成し遂げるまですべてを見たのは、今日が初めてだ。
そう言えば、そのおばさまは、
「私は交尾と口に出すのがとても恥ずかしいのです。」
ともおっしゃった。僕は生き物の交尾を人のそれとをダブらせて考えたことは一度もなかったので、その一言に、その発想にハッとさせられ、その言葉こそがまさにHっぽくて恥ずかしかった。
「もしかしてこの人、むちゃくちゃスケベなんじゃない?」
と思った。よく、Y談を恥ずかしがる人ほどスケベだというが、なるほど!と、納得させられた瞬間だった。
今日の画像はカタツムリが出会い、お互いに気を許し、並んで歩いている様子である。これから交尾行動が始まるのだ。
胴体が黒いものと白っぽいものとが写っているが、胴体の色は黒〜白まで遺伝によって決まると言われている。したがって、この写真は交尾行動を説明する写真でもあり、遺伝による胴体の色の違いを説明する写真でもある。
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2004.9.27(月) 採集

カタツムリといえば雨だが、カタツムリは胴体に雨粒があたるのを嫌うので、雨が降っている最中には意外に見かける数が少ない。そして雨が上がると、いっせいに活動をはじめ、しばらく時間が経つと、また枯葉の下やその他に隠れ込んでしまう。
したがって、雨が上がるタイミングで出かけると、大量のカタツムリに出会うことができるが、今日は、朝自宅を出る時間が、ちょうどそんなタイミングになったので、近所の神社に出かけてみたら、湧いているとしか言いようがないほどの大量のカタツムリを見かけた。
そのうち5ミリ程度の小さなものを約50匹くらい持ち帰ることにした。それらのカタツムリは、ちょうど来シーズンに、撮影にもってこいのサイズに成長するだろう。
50匹は取り過ぎだと感じる人もいるかもしれないが、生まれたばかりのカタツムリの飼育はなかなか難しいが、5ミリを越えると、飼育下で死ぬことはほとんどなくなる。5ミリを越えたカタツムリの場合は、間違いなく野外で過ごすよりも、飼育をした方が生存率が高いのだから、仮にたくさん捕まえたとしても、来シーズン撮影が終わったら、また元の場所に放せばいい。
逆に今の時期、大きなカタツムリはなるべく捕まえないことにしている。大人のカタツムリは、ちょうどこれから繁殖の時期を迎えるからだ。ただ、たくさん見かけるとやっぱり嬉しくて捕まえたくなるので、代わりに写真に写すことにした。
カタツムリの仕事を2つ同時進行で進めているのと、連日の雨で、「武田晋一の水辺」ではなくて、ほとんどカタツムリのホームページになってしまったようだ。
そこで、いっそうのことホームページのタイトルを変えようか?と、考えてみて思いついたのが、カタツムリの館とカタツムリスーパーデラックスだ。
もちろん、本気でタイトルを変えるつもりはなく半分冗談ではあるが、何でそんな突拍子もない名前が?と、よくよく考えれば、両方共にすでに同名のホームページが存在する。その名前が頭の中にあり、無意識のうちに、とっさにそれが思い浮かんだのだろう。
知らず知らずのうちに、何かの影響を受けることは、珍しくない。
さて、いいかげんに、違うものを見せたくなってきたな〜
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2004.9.26(日) 改造
熊本県の某所に、年間を通して常に水温が19度という湧き水の池があり、水温が一定であるから、そこにはほとんど四季がない。このHPの中でも、ギャラリーの中の、「湧き水の池にて」で、その池を紹介しているが、四季がないので、逆に言うと、時期を選ばずにいつでも写真が撮れる。
僕が好きな渓流は、今は、夏でもない秋でもない、写真を撮るにはやや中途半端なタイミングだが、そうした時期には、僕はよくその池に潜るのだ。
水中撮影に出かけようと、昨晩は、準備を整えて帰宅をしたが、今日から数日の天気の予報は、あいにく悪い。季節に関係なく撮影ができるその池だが、唯一、晴れなければ、この池独特の深い青色を見ることができないのだ。
そこで、今日は機材の改造を試みることにした。
(撮影機材の話)

先日、サンパックのB3000Sというストロボの新品を1つ買った。すでに、同じものを2つ所有しているが、どちらもガタがきていて、そろそろやばいな〜と、いう時期に差しかかっている。
そこで、現場で故障して困らないように、壊れる前にバトンタッチをすることにした。
B3000Sには、僕は上の画像のようにディフューザーを取り付けて使用する。ただ、ディフューザーを取り付けると、ストロボの色が若干変わる。ディフューザーの材質によって異なるが、赤くなるか青くなる。
そこで、ディフューザーを取り付けた状態で色温度を測定し、フィルターを使って補正する。色温度を測定する機器は高いので、一応の目安を書いておくと、LBフィルターのブルー系かアンバー系の一番薄いものを買うといい。それを、1枚か、或いは2枚重ねてストロボの発光部に貼り付ければ、十中八九、色を正しく補正できる。
一枚では薄すぎて、二枚では濃すぎると思えたときには、二枚目をストロボの発光部を半分覆うようにして貼り付ければいい。色が赤いと思えば青系、青いと思えばアンバー系を使用する。
LBフィルターは、写真用のものは高価なのでバカらしい。写真用のフィルターはレンズの前面に取り付ける前提で作られているので、レンズの光学的な性能を落とさないように作られているからだ。
僕は、舞台照明用のLBフィルターを購入している。サイズが約60センチ角で、1000円程度なので、写真用のものとは全く比較にならないほど安い。

それから、B3000Sの場合は、シューの位置を変更する改造を施している。上の画像の左が本来のシューで、右が、新しく取り付けたシューだ。
元々の位置だと、カメラのホットシューに取り付けたときに、発光部がカメラの真上からずれてしまうので、被写体の片側に強い影が出てしまう。そこで、発光部がカメラの真上の位置にくるような改造をする。
新しいシューの取り付けは、まず部品を他のアクセサリーから取り、B3000Sのシンクロコード部分の配線をつなぐ。そして、アクリル板用の接着剤で、接着する。
アクリル板用の接着剤は、一般的な接着剤と異なり、プラスチックを一度溶かして、また固める仕組みになっているので、実に接着力が強い。
逆に、一度接着すると、もう二度とはがすことはできない。力ずくではがそうとすると、接着部分が取れるのではなくて、他の部分が壊れてしまうだろう。したがって、内部で断線をしたりすると、困ったことになるが、シューのような力が加わる部分には、確実な工作をして、それくらい強力に接着した方がいいだろう。
今月の水辺を更新しました。
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2004.9.25(土) 隣の芝生は
ここ数日の無気力は、日を追うごとに程度がひどくなっていて、とうとう今日は、丸一日昼寝をして過ごした。僕がそうした症状に陥るのは、仕事が忙しい時期を乗り越えた後で、同時に、微妙に体調を崩している時が多い。
緊張が解けて無気力になるから体調がおかしくなるのか、それとも、体調がおかしくなった結果、無気力になるのかはわからないのだが、とにかく1年に何度か、そんな時期がある。
ただ、丸一日寝て過ごすなどというのは、本格的な病気の日も含めて一年に一度もないので、今回の無気力症候群はかなり重症だ。インフルエンザにかかっただとか、お腹をこわしているような明らかな病気の時は、僕の場合は、意外に仕事がはかどることが多いが、何か原因がはっきりしない時は、仕事ができなくなる。
知人が亡くなったことを知らされた。それから、もう大分時間が経っているのだが、死因は自殺で、僕は大変にショックを受けた。
知り合ったのは、福岡県の英彦山(ひこさん)にあって、写真好きやバイクが好きな人たちが多く集まる、姫沙羅という小さな喫茶店だった。普段人付き合いが悪い僕だが、いつの間にかその仲間の輪の中に入り、年上の人が多かったので、みなさんに可愛がってもらった。
亡くなられたのは、そこに出入りしていたBさんだった。
当時僕は野鳥専門のカメラマンを目指していたのだが、Bさんは、野鳥と植物に大変に詳しくて、熱心に写真も撮っておられた。また、山歩きでは誰もBさんについて歩けないほどの体力の持ち主でもあった。
大変に生真面目な人でもあり、それがBさんの写真からはいつも滲み出ていた。
植物にせよ、野鳥にせよ、写真にせよ、あれだけ何かに夢中になれる人がなぜ?と思ったら、亡くなられる前の1〜2年は仕事があまりに多くて、自然からも写真からも離れておられたらしい。
「どんなに忙しくても、たまには自然観察をしたり、写真を撮ったら良かったのではないか?」
と一瞬思ったが、追い詰められていて、そんな気になれなかったのだろう。
追い詰められていたり、やる気にならない時は、ゴロゴロしておくのが一番。
プロの写真家を目指して写真を撮り始めたばかりのころは、無気力症候群にかかると、写真が全然面白くなるのだから、とても焦った。
「おい、こんなことやって大丈夫か?」
と、もがいた。
が、そんなことを何度も繰り返すうちに、放っておけば、また好奇心が湧き出してきて、抑えようにも抑えられなくなることが分かった。
「まあ、いいや。」
と、適当にやり過ごすのがいい。
たくさんの仲間と出会えた喫茶店・姫沙羅は今でもまだあるが、建物こそ変わらないものの、寂れて、当時の面影は全くない。経営者も変わった。
当時、姫沙羅にそれだけ多くの人が集まったのは、長年喫茶店を切り盛りしてきたFさんの存在が大きかった。Fさんは大変な美人だったので、それが目的の男性も多かったようだが、それ以上に、何か人の心を捉えるチャーミングさがあった。
「こんな田舎になぜこんな人が・・・」
と一瞬にして虜になってしまった人が、少なくなかったようだ。
だがある日、Fさんは、英彦山を去る決意をする。英彦山の、田舎の閉鎖的な体質を嫌い、お子さんが全員成人したのを機に、突然に家を飛び出したのだった。家庭の中で、Fさんなりに辛いことがあったようだ。
英彦山を去ってからも、Fさんからは、時々電話がかかってきたが、山あり谷ありの日々を過ごされたようだ。先日、テレビに出演したら、偶然に番組をみたFさんから、久しぶりの電話があり、今でもまだ、苦心の日々が続いているようだった。
「テレビの中の武田君が、話し方、話の内容・・・・あの頃と全く変わっていないので、すごく嬉しかったのよ。」
とおっしゃった。そして、
「あの頃は本当に楽しかったね・・・」
と。
隣の芝生は青く見えるというが、あの時英彦山を出なければ、今でも・・・
だが、田舎の閉鎖された環境の中で、Fさんが出てみたい!と抑えられなかったのは、無理のないことなのかもしれない。
今月の水辺を更新しました。
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2004.9.23(木) 更新
昨日、キュウシュウシロマイマイを紹介したが、写真には色々な撮り方があり、生き物の形を見せたい時や、生息環境も見せたい時や、その生き物の雰囲気を伝えたいこともある。
今日は、昨日の画像とはちょっと雰囲気の異なるキュウシュウシロマイマイの画像を選び出し、今月の水辺の中で紹介してみることにした。
今月の水辺を更新しました。
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2004.9.22(水) 九州白マイマイ

朝から何となく無気力で、今日は、仕事をする気になれない。そこで付近の山の中を、目的もなく、ただフラフラと歩いてみたら、キュウシュウシロ(九州白)マイマイの姿を見かけた。真っ白で小さなカタツムリだ。北九州の山中では、竹林の付近に多い。
竹の葉っぱを食べているわけではないと思うが、恐らく、うっそうとした暗い場所よりも、ちょっと明るい場所が好きなので、竹林に多いのではないか?と、日頃僕は感じている。
そもそも、毎日毎日計画通りに仕事ができるわけはないのだが、ここ数日は、無気力症候群にかかってしまったようだ。

いつも見ているものは、どんなに小さなものでも、どんなに無気力な時にでも、目にパッと飛び込んでくるものだ。上の画像はカタツムリの糞だが、カタツムリを本格的に飼育するようになって以来、よく目につくようになった。
(撮影機材の話)
父が、CanonのEOS20Dを購入することになった。これで、僕は20Dを買う必要がなくなった。父はEOSKissデジタルも持っているので、20Dを使いたい時は、借してもらえばいい。
Canonは、キャノンと呼ぶが、カタカナで表記する時はキヤノンが正しいのだと、沖縄在住の自然写真家、湊和雄さんから教えてもらった。僕はうっかりや、細かいことが苦手なことからくる間違えが大変に多いが、時々、湊さんに指導をしてもらうのだ。
初めて指摘をしてもらった時には、
「お、恐れ多くも先輩から・・・」
と一瞬緊張したものだが、今や湊さんからの指摘のメールが快感になり、とうとうメールを開く前から顔がニヤけるようになってしまった。そのあまりの快感に、
「僕は実はMなのか?」
と自分自身を疑うほどだが、僕がMなのではなくて、それは湊さんの人柄によるところなのだと信じたい。
EOS20Dを買う必要はなくなったわけだが、後はニコンマウントのカメラを何にするかだ。
数日考えて、一番気になっているのはフジのS3プロだ。何といっても、他社のカメラとは若干構造が違う点が、個性的でよろしい。
ただ、このカメラは、最も高画質な状態で撮影した時には、かなり書き込みに時間がかかるようだ。現在僕が持っているニコンのD70は、カメラが書き込みをしている状態で、どんどん別の写真を撮ることができるが、フジの場合は、それが最高画質では3枚までしか撮れないらしいのだ。
生き物を撮るカメラとしては、ちょっと厳しいかな〜。
だが、価格が実売で26万円前後と言われているので、D2Xよりもずっと安い。当面フジを買っておき、D100の後継機のD200が発売された時にそれもすぐに買うという手もある。
D200は、恐らく20万円弱で出てくるはずなので、フジ+D200で、大体D2Xと同じくらいの価格になる。D200は、まだ発売されてもないが、僕にとって、一番使い前が多いカメラになることだろう。やっぱり、フジ+D200にしておこうかな・・・
デジカメは、たくさんシャッターを押して何ぼだと思う。フィルムカメラと違って、古くなってしまうと、ほとんどその存在価値がなくなってしまうし、持っているだけでは仕方がない。そう考えた時に、D2Xは、大き過ぎて重たすぎるので、意外に持ち出さないような気がするのだ。
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2004.9.21(火) ツユクサ

カタツムリは、飼育下では野菜をよく食べるが、自然条件下で野菜を食い荒らすカタツムリは少なくて、ウスカワマイマイというカタツムリがそれにあたる。
カタツムリは、地域ごとに種類が細かく別れていることは、以前にも何度か書いた。ちょうど沖縄の人は本土の人と顔つきが違うように、カタツムリのようなあまり長い距離を移動できない生き物は、地域ごとに隔離されやすい傾向にあり、その土地ごとに特徴を持ったカタツムリが生じやすいのだ。
ところが、野菜によくくっ付いているウスカワマイマイは例外で、運ばれやすく、日本中に広く分布する。
また、他の多くのカタツムリは、苔や枯葉を主に食べると言われている。今日は、ツクシマイマイが苔を食べる様子を撮影した。

ホームページを通して、いろいろな方から感想のメールが届けられる。僕の場合、一番多いのは、
「気持ち悪い!と思い込んでいた生き物が、ホームページを見てみると、そうではありませんでした。」
というもので、もちろん、僕は、そういう風に意識をしてシャッターを押している。
ところが、ホームページを立ち上げた当初は、僕に、そんな意識は全くなく、ただ、そうした感想が多く届くので、
「あ、そうなんだ!それが僕の写真の持ち味なんだ。」
と、それからは意識をして、常に心にとどめておくようになった。
何度かこの日記の中にも書いたが、これまで僕は、とにかく一通りの写真が撮れるように、技術を身に付けることを最優先にしてきたが、最近になって、そろそろ自分のスタイルを表に出してもいいかな・・・感じる。
その時に、半分は、「僕には自然がこう見える!」という僕の主観を押し通していくつもりだが、残りの半分は、「あなたの写真は、気持ち悪くないですよ。」という人の評価を、やっぱり大切にしていいたいと思う。
元々、「気持ち悪くないように」と、考えて撮っていた訳でもないのに、人の目に、僕の写真がそう映るということは、無意識でも、僕はそういう風に撮りたいのだろうな〜と、思うのだ。
今日は雨が降ったので、雨の中でのカタツムリを撮影したが、ふと、ツユクサがたくさん咲いていることに気付いた。どれも、花びらの縁がやや痛んでいて、もう一番きれいな盛りを過ぎたものが多い。
今年は、セミとカタツムリの撮影に夢中になり過ぎて、何でもない草むらに目を配らなくなっていたので、今頃、花が痛み出したことに気が付いたのだろう。
少し痛み出したツユクサの花に、あっという間に過ぎ去っていったこの夏を気付かされたので、撮影の帰りにカメラを向けてみた。
そんな時は、フィルム代は不必要なデジカメの存在が嬉しい。花の写真を売りたいのなら、やはり痛んでいないものを撮らなければならない。でも、僕が撮りたいのは、必ずしも痛んでいない花ばかりではないのだ。ちょっと痛んでいるものが撮りたいときもあるし、もっと痛んでいるものがきれいに見えることもある。
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2004.9.20(月) 蔓

大変に仕事が多かった今シーズンだが、その山は越えたと、ちょっと前にも書いた。
ただ、まだ完全に終わってはなく、残ったわずかな仕事に早くけりをつけたいと、考えている。
写真は、そんなに長い時間撮り続けれるものではない、と日頃僕は感じる。
やっぱり集中力が求められるからだが、今年一番仕事が多かった時には、連日、朝早くから夜遅くまで、丸々一日ぶっ続けで写真を撮った。
食事抜きも珍しくない。正確には抜いているのではなくて忘れているのだが、そんな無理やりに詰め込んだような状態でも、それなりに写真が撮れたし、そんなことが出来てしまうのだから、自分で、
「すご〜い」
と感激もした。
ところが、「あと少し」と、気持ちが穏やかになってくると、突然に無茶な撮影ができなくなり、人並みに疲れるようになる。毎日少しずつしか、仕事が先へ進まなくなる。
「あとちょっと」
と、ゴールが見えてからが非常に長い。
さて、僕の場合は、「何となく嫌だな〜」と、感じる撮影が後に残ることが多い。どうしようもなく難しそうで、つらそうな撮影は、意外にも先に片付いてしまう。
今日の、カタツムリがツルをわたる写真も、「なんとなく嫌だな〜」と感じていたシーンの1つだが、今まで手をつけずに後回しにしてきた。僕が直感的にそう感じる写真は、一見平凡で簡単そうで、実際に撮ってみたら、なかなかピシッと決まらなくて、あ〜でもない、こ〜でもないと、その場で試行錯誤をしなければならないような写真が多い。ツルを渡るカタツムリも、今日撮ってみたらやはりそうだった。
ツルに対してカタツムリが小さければ、撮影は簡単になる。だが、ツルを渡っているという感じがでない。逆にカタツムリが大きいと、ツルを渡っている!と強い印象を与えることができるが、カタツムリの重みでツルが真下に垂れてしまい、ツルを渡っているというよりは、ちょっとラセン型をしたのぼり棒でも登っているように写ってしまう。
今日も、カタツムリのサイズを何度変えて、いろいろなサイズのカタツムリで撮影を試した結果、画像のカタツムリに落ち着いた。
僕は、いろいろなサイズのカタツムリを飼育しているが、それがこんな時に役立つのだ。
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2004.9.19(日) カタツムリの糞

いつ見られるか分からない行動の撮影は、待たなければならず、しんどい撮影になることが多い。
ところが、どんな生き物のどんな行動でも、生き物と深く付き合うと、大抵は兆候や傾向があり、どうしようもなく長い時間を待つことは、少なくなってくる。
今日は、カタツムリが糞をする様子を撮影した。
日頃から調教をして、よく仕込んでいるカタツムリに、
「ワン、ツ〜」「ワンツ〜」
と、声をかけてやると、糞をするのだ。
なんちゃって、それは盲導犬の場合の話で、悪い冗談だが、そろそろ糞をするぞ!と、兆しが見られるカタツムリの前で待つこと2時間、カタツムリが糞をはじめた。待ち時間が4時間や5時間になってくると、さすがに辛くなってくるが、2時間くらいまでは大したことはない。
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2004.9.18(土) 隠し子

「え!武田君って子供がいるの?」
という声が聞こえてきそうだが、何を隠そう、僕はまだ一度も結婚をしたこがない。
「何でも一通りの物を撮れる自信がついてきた。」
とちょっと前に書いたばかりだが、
「これは苦手だな。」
と感じる撮影はやっぱりある。今日は、カタツムリの飼育シーンを撮影したが、僕の場合、人物の撮影は不得手で、非常に苦しい。幼馴染のター坊に声をかけ、たー坊の長男のとしちゃんに、モデルをお願いしたが、これがもしも自分の子供だったら、もっと楽に写真が撮れるものなのだろうか?
僕は、これまでも、小さな子供をモデルにして、いろいろな生き物の飼育シーンを撮影したことがあるが、結果がどうしようもなく悪かったことはない。むしろ、自分が思っているよりも多少いい写真が撮れているものだが、それでも撮ったという実感はなく、あっ撮れてた・・・という思いしか残っていない。
今日もやっぱりそう。周囲が全然見えていないことが、自分で良く分かる。
カメラがどのような状態に設定されているのかを見るゆとりも、構図を考えるゆとりも限りなくゼロに近い。頭の中は真っ白のままで、ただ日頃体で覚えていることを、条件反射のように繰り出しているに過ぎない。
そういう自分が、悲しいくらいによく分かるのだ。
これだけは、永久に克服できないような気がするな〜。
(撮影機材の話)
さて、木曜日の続きを書こう。ニコンのD2XやフジのS3プロの他に、欲しいカメラが2つある。1つは、ペンタクスのist
DSで、あとの1つは、キャノンのイオス20Dだ。
ペンタックスは、現在持っているistDの画質が、とても僕の好みに合う。特に、自然光や自然光に近い柔らかいストロボ光で撮影した時の質感がいい。僕は、シャープな写真が撮れる道具よりも、質感のいい写真が撮れる道具の方が好きなのだ。
ただ、今持っているistDは、書き込み速度が遅すぎる。新製品は10万円以下で買える普及機だが、恐らくそうした面に関しては、ぐっと進歩しているのではないか?と思う。
カタツムリや風景の撮影のように比較的ゆっくり撮れて、しかも、質感で表現したい被写体にはペンタックスを、飛んでいるトンボのように動きが早くて、シャープに撮った方が様になる被写体にはニコンをという使い分けが、僕にとっては楽しい。
ペンタックスは、今使用しているistDを下取りに出せば、そう大枚をはたかなくても買えるので、そうすることになるような気がする。だた、CFカードではなくて、SDカードを使うカメラになってしまった点が残念だ。CFカードよりも小さなSDカードに変更することで、コンパクトにしたいのだろうが、そこまで小さくても仕方がないような気がする。
キャノンのイオス20Dは、それを持つ喜びではなくて、純粋に道具として便利そうだ。
キャノンのカメラはいつもそうだ。シャッターを押した時の振動や音など、非常に感触は悪いが、そんな絵作りに関係ないところにはお金をかけないのがキャノンの特徴だ。それよりも徹底して便利な道具を作り、いい写真を撮らせるというのが、キャノンというメーカーのようだ。
プロが使う道具としては、確かにそれが正しいように思う。
また、残念なことが1つある。どのメーカーも、ダストリダクション機構を搭載しなかったことだ。
僕はニコンもキャノンも言葉は悪いが、「バカだな〜」と思う。ニコンとキャノンは競争するかのように相手を意識した新製品を出すが、今ダストリダクションを搭載すれば、それだけの理由で、そのカメラを買うプロが、たくさんいるのではないだろうか?
もしかしたら、現在ダストリダクションを唯一搭載しているオリンパスが、特許他、アドバンテージを持っているのかもしれないが、ニコンかキャノンか、先にそれを搭載した方が、当面は相手をぶっちぎることができるように思うのだが・・・。
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2004.9.16(木) 新製品
日記にはなるべくカメラのことは書かないようにしているが、ここのところ、注目の新製品が続々発表されたので、ちょっと触れてみたい。いつもは写真に詳しくない人が読んでも分かるように、なるべく専門用語を使わず書くが、今日はカメラファンに向けて書きたい。
カメラに興味がない人は、今日はごめんなさい。
まず、僕が主に使用しているニコンからは、D2Xである。
約1200万画素、APSサイズのイメージセンサーを持つカメラとして、今日発表された。定価が60万円なので、落ち着けば、実売で40万円台の半ばくらいになるのだろうか。ボディーは、すでに発売されているD2Hと共通のようだ。
僕はこれまで、数十万円する高価なデジタルカメラを買うつもりは、全くなかった。理由は、デジタルカメラが、実用レベルで、まだまだ発展途上だと考えていたからだ。例えばニコンで言えば、数十万円のD1Xよりも、10万円台前半のD70の方が優れている点が多い。
要するに、安くていいものが、どんどん開発されている真っ最中であり、まだ待った方が徳だと判断していた。それで、10万円強で買えるD70を購入したが、大正解だったように思う。
それが、ようやく最近になって、ほぼ行き着くところまで行ったかな?と感じるようになった。一番安いD70でさえ、フィルムカメラと比較しても、ほぼ不満がないレベルに達しているからだ。
今度は、高級機を買ってもいいかな?と思う。
キャノンを使っている人には、400万画素のイオス1Dと800万画素のイオス1DマークUの画質が、それほど大きく違わないという人が、意外に多い(細かい部分ではもちろん、新しいマークUがいい)。
それを考えると、ニコンも600万画素と1200万画素とで、それほど大きく描写が変わらないのかもしれない。画素数が違うだけで、基本的な仕組みが同じなのだから、そんな物なのかもしれない。
そう考えた時に、フジの新製品S3プロは、僕にとってとても気になるカメラだ。まず、ニコンのレンズを使用できるカメラであり、さらに、他のメーカーのカメラとはセンサーの構造が異なるからだ。
デジタルカメラは、明〜暗までの表現の幅がフィルムよりも狭い。そこに苦労させられることがあるが、その点フジは、通常のイメージセンサーとは別に、幅広い明〜暗を表現できるセンサーを持っていて、2段構えになっている点に興味をひかれる。
ただ、ボディーは、ニコンのF80を流用したものなので、その精度に若干の不満が残りそうな気配だ。それから、カメラの書き込み速度など、どの程度キビキビ動きかも気なる。その点を、実物を触って確認したい。
いずれ、フジのS3プロか、ニコンのD2Xを買うことになるだろう。
明日は、他に気になっているカメラについて書こうと思う。
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2004.9.15(水) 散々
生き物の撮影って難しいな!と痛感する瞬間がある。
と言ってもいろいろなケースがあるが、例えば、何度も何度も撮影をしたことがあり、どうしたらそのシーンが撮れるのかをよく知っていても、ほんのちょっと気を抜いた結果、思ったような写真が全く撮れないことがある。
今日は、カタツムリが野菜を食べるその口元をUPで撮影する予定だったが、なかなかカタツムリがカメラの前で餌を食べてくれない。
それもそのはず、昨日新しい餌をやったばかりなので、お腹がすいてないのだ。
食べる口元をUPで撮るには、数日間絶食させておくのが効果的であることは言うまでもない。そのシーンを撮影する計画を組むのであれば、餌のやり方から調整する必要があり、それをうっかり忘れてしまったのだった。
が、それでも、少しくらいなら食べるかな?と思ってトライしたが、全くダメ。
それから、糞をする様子も撮影する予定を組んでいたが、こちらもダメ。
糞は、いつ出てくるが分からない点が難しいところだが、幾つかの準備とコツがあり、その準備とコツを熟知しているつもりであったが、ちょっぴり脇の甘い準備をした結果、やっぱり思うような結果は得られなかった。
今日は散々。
しかしまあ、寸分の隙もなくガンガン仕事をする奴など、かわいげがないだろう。これでいいのだ。
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2004.9.14(火) 越冬線

大人のカタツムリの殻に、生まれて間もない、子供のカタツムリを這わせてみた。
今日の画像の、子供のカタツムリが歩いている場所の少し上に、親の殻が若干乱れているように見える場所がある。
そこが、木で言う年輪であり、越冬中に殻の成長が止まっていたことを示す場所になる。
それを冬眠線という。
僕がよく撮影しているツクシマイマイは、3年で大人になると言われているので、1年目の冬、2年目の冬と越冬線が現れ、3年目の夏あたりに成熟し、もう殻が大きくなることはないので、それ以上の越冬線が形成されることはない。
子供向けの科学雑誌の中では、よくその冬眠線が取り上げられるが、いざ野外でツクシマイマイを採集して冬眠線を探すと、1年目の冬、2年目の冬と、きれいに冬眠線が現れているものが意外に少なくて、かなりの数を採集しなければ、わかり易い冬眠線をもつツクシマイマイに出会うことができない。
「なぜ、2本のはっきりとした冬眠線を持つカタツムリが少ないんだ?」
と、僕は疑問を持った。
福岡県の平地にすむツクシマイマイは、冬でも暖かい日には食べものを食べ、本当の意味での越冬をしないのでは?と、その時僕は推測したが、その後、どうもそうではないことが分かってきた。
3年で成熟すると言われているツクシマイマイだが、飼育をすると、2年目に大人になるものもいれば、3年かかるものもいる。
同時期に生まれた子供を、同じ容器の中で飼育しても、方や直径1センチ程度の殻で、方や3センチくらいの大きさになることも、珍しくない。
そして、恐らく九州の平地の野外では、2年に成熟するツクシマイマイの方が多いのではないだろうか?だから、2本のはっきりした越冬線を持つツクシマイマイが少ないのだろうと、僕は考えている。
同じ種類の生き物で、それだけ成長具合に差が出てくるのだから、不思議だな〜と思う。
大きくなるものは、やはり餌を良く食べる。なかなか大きくならないものは、飼っていて、
「虚弱体質なんじゃないか?」
と感じることが多い。
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2004.9.12(日) 物の撮影

カタツムリは殻を作るためにカルシウムを好んで食べる。例えばこのイカの甲は、大好物だ。
イカは軟体動物といって貝の仲間だが、多くのイカは殻を持たない。ただ体内には殻を持っていた大昔の名残があり、それがイカの甲と呼ばれている。
イカの甲は、ペットショップに行くと、カットルボンという名前でインコの餌として売られている。
今日は、カタツムリの本の中の、飼育に関するページの写真を撮影した。
 
イカの甲を与えない場合は、「卵の殻を与えるといい」と、多くの本に書かれているので、卵の殻も撮影した。
それから、カタツムリの容器には適度な水分が必要なので、園芸用の赤玉土という土を敷き詰めるといい。赤玉土は、土を丸く固めて焼いたもので、小さな粒状の土の中に水分が閉じ込められる仕組みになっている。したがって、表面はさらさらしているのに、粒の中に湿気を保つ性質で、それがカタツムリにとっていい環境になる。
さて、なぜこんな物を紹介したかというと、カタツムリの飼育を推奨したいのではない。イカの甲や卵の殻は、撮影がなかなか難しいからだ。
イカの甲の場合は、靴べらの先端を裏側から見たときのような感じで滑らかに反っているが、それを写真に撮ると平坦に写りがちだし、卵は球の感じを出しにくい。
赤玉土は、粒のコロコロした感じがちゃんと伝わるように撮りたかった。写真は平面なので、球形や滑らかなカーブを表現することが難しいのだ。
商品撮影を仕事にしている人にとっては、この程度の撮影は容易いことだ。彼らはそれでお金をもらうのだから十分な機材を持っているし、一枚の写真に時間をかけることができる。
ところが自然写真家の場合は、こうした物の撮影はついでなので、道具もあまり持たないし、そうした写真に関して、高いクオリティーを要求されることもない。仮にクオリティーの高い写真を進んで、凝りまくって撮影しても、それに値するギャラをもらうこともない。
だから物を撮る時は、時間をかけ過ぎないように、チョチョイノチョイと撮らなければ、採算が合わなくなる。でも、やっぱり少しでもいい写真が撮りたいので、少ない機材で、手軽に撮れるシステムを自分で構築する。
本格的な道具を使って100点の写真を撮りたい時は、商品撮影の本を読めばいい。だが、本には、手軽な道具で70点の写真を撮る方法は紹介されない。だから、自分で考えなければならない点が難しい。
それが、最近はどんな形のものでも、撮影のすべての準備も含めて、大体2〜3分で撮れるようになった。
そろそろ、自分らしさということを意識して写真を撮ろうかと思う。
これまでは、そうではなくて、あらゆる表現を一通り身に付ける努力をしてきた。やっと大体一通りのものを身に付けたかな・・・と、自分で思えるようになってきたからだ。
最近そう感じることが多いが、これまで最も不安だった物を今日撮影してみて、改めてその決意が固まってきた。
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2004.9.11(土) 腹が・・・

今朝は何だか、朝から力が湧いてこない感じがする。腹具合もイマイチ良くない。
まあそんな日もあるだろうと一旦受け入れて、ふとその原因が思い当たった。
「そう言えば、昨日ラーメンを食べたなぁ。」
僕は福岡のとんこつラーメンが大好きだが、食べるとほぼ百発百中、腹を壊すのだ。
昨日は、北海道から写真家の門間君が遊びに来た。それで、この辺りでしか食べられないものを・・・と、とんこつラーメンを食べにいった。
とんこつラーメンは博多と呼ばれている福岡市の周辺が本場だが、実は北九州市の方が博多より全体的に美味い。ただ福岡県の商業の中心は博多なので、博多の人が北九州に来ることは少ないし、北九州のラーメンを博多の人が食べる機会は、食べ歩きが趣味の人でもない限り、少ないだろう。
ところが、北九州の人はより大きな町である博多に出向く機会がある。北九州の人には、博多の味も、北九州の味も両方体験した人が多い。すると、大抵の人が、
「北九州の方が美味い!」
という。
「これは美味い!」
と門間君も美味そうに食べた。僕も
「やっぱり美味い」
と、スープを飲みすぎた。スープを飲まないようにすれば、若干腹を壊しにくくなるのだが、やはりつい飲んでしまうことは以前にも書いた。そして、性懲りもなく、やはり今回も、腹具合が悪くなった。
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2004.9.10(金) タニシ

今僕が撮影しているカタツムリの本の中には、カタツムリの殻が大きくなる様子を見せるページがある。カタツムリの本を2冊作っているが、2冊共にそんなページがある。
カタツムリの殻はグルグルと渦を巻くが、生まれた時は一巻き半くらいの巻き数で、成長するにつれて、それが増えていく。つまり、カタツムリの殻は伸びながら大きくなる。
殻の切断面を上から順に見ていくと、小さな殻の下に、新しい殻が付け加わっていることが分かるだろう。
このことをちょっと憶えておいてもらいたい。
さて、昨日タニシを採集したが、タニシには種類があり、種類を調べるために図鑑を広げてみた。すると、タニシの殻の巻き数について、何回巻くのかが書いてあった。
それを読んで、ふと僕は疑問に思った。「タニシの殻は何回巻いています」などと説明しても、巻き数が少ない子供のタニシもいるよな〜と。
すると、実際に図鑑どおりの巻き数のタニシも存在するだろうが、ずっと巻き数が少ない子供のタニシも存在するだろう。むしろ自然界には子供の方が多いのだから、殻が何回巻いているのかなどを図鑑が説明しても、ほとんど何の役にも立たないのではないか?と。
そしてタニシを採集して驚いた。
なんとタニシは、大人であろうが、子供であろうが、殻の巻き数が同じなのだ。

大人のタニシも、子供のタニシもこの形なのだ。
つまり、カタツムリのように殻を伸ばしながら大きくなるのでなく、殻の巻き数や形は生まれた時から決まっていて、それが全体に大きくなるようなのだ。
そうして思い起こすと、カタツムリよりもずっと細長いキセルガイという陸に住む貝も、タニシのように小さな時から殻がたくさん巻いている。
タニシは、単純に殻の外側が全体に大きくなるのではないだろう。生まれたばかりのタニシの殻は小さくて中も狭いのだから、身の部分が大きくなるにつれて、殻の中のスペースも大きくなる必要がある。いったいどんな仕組みで、タニシは殻を大きくするのだろう?
恐らく多くの人にとって、カタツムリの成長の方が理解しやすいだろうなぁ。それにしても、カタツムリとタニシは同じ貝の仲間なのに、殻の大きくなり方が全く違うのだから不思議だな〜。
ところで、カタツムリの本の中にはよく殻の成長の様子が取り上げられる。
なぜ取り上げられるのか?最初に取り上げられたきっかけを僕はよく知らないが、もしかしたら貝の成長の方式としては、タニシのようなスタイルの方がポピュラーなのかもしれない。
そして、そのポピュラーなスタイルとは違った方式でカタツムリが大きくなるので、
「こんな特徴があるよ!」
と取り上げられたのではなかろうか?
カタツムリが本の中に登場するようになったのは、ずっとずっと以前のことなので、今となってはそれを調べる方法はない。
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2004.9.9(木) 小川

メダカの生息環境を撮影するために、福岡県南部の秋月という場所をたずねた。
ずっと以前から何となくこの場所が好きだったので、今回メダカの本に掲載する写真を撮影するためにこの場所を選んだ。
メダカを特に多く見かけのは、田んぼの周辺の水路だろう。だが、他にも小川や池でもメダカを見ることがあるので、今日は小川の写真を撮りに行った。
メダカが、本当にこの場所に生息しているわけではない。今日撮影したのはイメージ写真だ。もしも「メダカを採集しましょう!」という本を作るのであれば、僕は必ず、実際にメダカが住む場所の写真を撮る。最近は、多くの田んぼの水路がコンクリートで塗り固められていて趣がないが、それでも構わないと思う。
だが、イメージを撮りたいのであれば、なるべく自然な感じがいい。そして、ちょっとでもきれいに撮りたいと思う。
自然写真家の中には、自然現象を面白く説明したい人と、自然の美しさを見せたい人とがいる。僕は両者のバランスを重視するが、中には現象さえ面白ければ全く美しさを問わない人も、逆に美しければ、現象の面白さを問わない人もいる。
どれが正しいわけでもなく、好みの問題である。
ただ、たとえ自分が生き物の面白い現象が圧倒的に好きで、美しく撮ることには興味がなくても、美しさを否定するのは間違えだと思う。
例えば、もしも美術や音楽が否定されるような社会があれば、そんな社会の中では自然や生き物の面白さも否定されることだろう。美しく撮ることを否定すれば、それは回りまわって、自然をみること自体を否定することになるような気がするのだ。
早朝に秋月に出かけたが、午後からはタニシを採集した。タニシは明日、スタジオで水槽を使用して写真に撮り、貝の仲間ということでカタツムリの本の中に使用する。
そのタニシに関して、カタツムリとの比較で大変に面白いことに気付いたので、明日書いてみたい。
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2004.9.8(水) また、ダンゴムシ
昨年ダンゴムシを撮影して30ページ前後の小さな本を作ったが、その写真がそのまま、今度はちょっと違った形で、再度出版されることになった。前回は月刊誌として出版されたものが、今度は単行本として出版される。
ただ、表紙だけは変えたいという要望を受け、今日はその表紙のための写真を撮影した。
たった一枚の撮影だったが、僕に渡された絵コンテは、
「よくぞ、こんな難しい絵柄を・・・」
と、顔に斜線が入るほどの超難題だ。わずか一枚の撮影が、これだけ重荷に感じられたことは今までない。
絵コンテを見て、
「これは半端な気持ちでは絶対に撮れない!」
と判断した僕は、今日はその一枚だけを、丸々一日をかけて撮影することにした。
撮影はスタジオで、まず朝のうちにスタジオの中に撮影セットを組む。それから昼食を食べて、万全の態勢で撮影に入り、果たして数時間後、ようやく依頼された写真が撮れた。
いやフィルムなので、撮れているに違いない。
先日、博多の現像所で、約10本のフィルムの現像でミスが生じ、かなりの写真がボツになった。もしも今回、同じようなトラブルに見舞われたなら、僕は発狂することだろう。
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2004.9.7(火) 一球入魂

「福岡県にとっては最悪のルート」
と言われた台風がきたが、今日はスタジオでカタツムリの本のための写真を撮影した。
「ちょっとカタツムリが下過ぎない?」
と言う人がいるかもしれないが、この後、カタツムリが胴体を伸ばす様子を撮影するつもりで、こんな風に撮った。
この画像は、殻から出てくるカタツムリを連続写真で見せる写真だ。
口うるさいアマチュアカメラマンは、やれ構図だとすぐに言いたがるが、その前に写真は、どんな場で何を見せるために撮るのか、その目的をよく頭に入れて撮影することが大切だ。
たとえば、背景が暗い写真は、被写体が黒の中に浮かび上がりカッコイイが、もしも、
「都会にこんな生き物がいるんだよ!」
と主張したいのであれば、背景が暗くて、そこに都会の何があるか分からない写真は失格だろう。どんなに絵画的には美しくなくても、その場合は、電線や建物が写っていて欲しい。
先日、来春出版されるセミの本の中で使用するための街路樹の写真を撮りに、博多の町にでかけた。
編集者からは、
「できれば、同じ種類の木でも、いろいろなバリエーションの写真があれば、選択肢が広がり、本作りの作業が楽になるので、たくさん撮ってください。」
と言渡されていた。
そう。今日のカタツムリの画像と同じように、一番きれいな写真はどれか?だけでなく、その写真がどういう風に使われるかという要素が加わってくるので、いろいろなパターンを前もって撮っておくことを望まれたのだ。
そう言われて、たくさんの写真を撮ろうとして気付いた。僕は一枚の写真を撮るのに、たくさん時間をかけるタイプなのだと。
街路種を一本撮るのに、木を見てまわり、構図を決め、雲の動きを待ち、平均すると30分くらいの時間がかかっていた。今回撮影した木は4種類だが、それらを一枚ずつ撮るだけで、2時間もかかるではないか。
物がきれいに写る撮影に適した時間は限られている。丸々一日写真が撮れるわけではないし、結局、たかが逃げもしない街路樹を撮るのに、3日も博多の町に出かけた。
しかし、たくさん撮ろうとしたのに、写真はイマイチ良くないかな・・・と、正直思った。僕は一球入魂型であり、たくさん撮るのではなく、一点に集中することで初めて力がでるのだと、よく分かった。中には、たくさん撮っておいて、その中から選ぶことでいい写真をものにする人もいるだろうし、人によってさまざまなのだろう。
僕はそんなタイプなので、たくさん撮ろうとすると、撮影がとても苦痛だった。イライラしながら街路樹を見て回り、いつもの僕とは、心持ちが違っていた。
結局、やっぱり向き不向きがあるのだと判断して、次回からは、自分のやり方を貫き通そうと心に決めた。なんでもない街路樹の撮影だったが、そうしてたくさん撮ろうとしてみることで、自分に合うやり方がよく分かった。
中には、同じようなケースで、
「編集者がこんな無理を言った!奴らは全然写真が分かっていない」
と受け止めるカメラマンがいるかもしれない。だが、もしかしたら、
「たくさん撮って。」
という指示を受け、その通りにしてみることで、いつもよりも結果的にいい一枚が撮れ、
「あ、僕はたくさん撮ったほうがいいタイプだ!」
と展開したかもしれなかったし、やっぱり人からの刺激を受け、試してみることが大切ではないだろうか?
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2004.9.5〜6(日〜月) 感想

「テレビの影響力って凄いんだな〜」
と、思い知らされた。番組に出演したことに対して、いろいろな感想が届いた。
僕が面白い!と思ったのは、ずっと僕を応援してくださっているFさんからの、
『生き物の撮影といってもスタジオでの撮影が中心になっている 』 というテレビの取り上げ方は、良くないのではないか?飼育中の生き物の世話が日課だというのもひっかかった。
という意見だった。
ちょっと解説をすると、僕は野外で撮影する時間も長いが、今日の画像のように、スタジオで本作りのために必要なシーンを撮影する時間もある。ただ、写真が売れてお金になっているのはスタジオで撮影した部分が圧倒的に多くて、そうした僕の状況を、担当ディレクターの南さんがテレビの中で正直に取り上げたのだ。
それに対してFさんは、野外で生き物と向かい合うようなロマンに溢れている部分を集中して紹介するべきでは!と感じた。
確かにスタジオで生き物を撮るのは仕事的であり、ロマンチックではない。僕の仕事の中では本来影になるべき部分だし、僕自身も見せたくはない。
ではなぜディレクターの南さんはそこにスポットライトを当てたのか?僕はこう推測する。
南さんは、僕とほぼ同じ年齢だ。僕が36歳、南さんが37歳だが、ちょうど訳も分からず我武者羅に仕事をしている状態と、安定して力を出している状態との、狭間のような立場の年齢になるのではないだろうか?
仕事はちゃんとできているし、それなりに自分の仕事に納得もしている。でも確信はない。日頃は自信があるような気がしても、時にその自信が実に危ういものだと痛感させられる機会もある。
僕の場合は、スタジオで今日の画像のような写真を撮ったことがきっかけになり、次々と仕事を依頼してもらえるようになったが、スタジオで写真を撮ることに対して全く疑問がないかと言えば、それは嘘になる。
スタジオでの撮影にはロマンがないし、こんなのでいいのか?と思う気持ちと、これでいいんだ!つべこべ言わずに、ちゃんと仕事を確保して写真を撮っていくことが大切なのだ!と思う気持ちが両方ある。基本は後者であり、僕は間違いなくスタジオでの撮影を続けるだろうが、迷い(疑問かな?)もあるのだ。
南さんが日頃どんな風にテレビ局で仕事をしておられるのか、僕には分からないが、南さん自身も、何か僕と同じようにまだ分からない部分を持ち、やはり分からない部分を抱えている僕に共感して、
「取材させてください。」
と声くださったのではないだろうか?だから、僕の迷いの部分を取り上げたのではないだろうか?
僕の取材をする南さんを、取材をされながら僕の側から見て、
「あ、ぼくと同じだ。この人は、今まさに勉強している真っ最中なんだ!」
と、感じることが何度かあったのだ。
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2004.9.4(土) 恋の矢

8月分の「今月の水辺」の中で、カタツムリの交尾を紹介したが、カタツムリはオスメスの区別がない雌雄同体である。
では一匹で子孫を残せるか?というとそうではなく、相手が必要で、お互いに相手に管を突き刺して交尾をする。
その際に突き刺す管のことを恋矢(れんし)というが、今日はその恋矢が落ちていることに気付いた。
カタツムリのイメージからして、この恋矢を相手にゆっくりと突き刺すような感じがするが、恋矢はまるで別の生き物のようにすばやく動く。まるでボクサーがパンチでも繰り出しているかのように、シュッシュツと突き刺すような動きをする。
交尾を終えると恋矢は抜け落ちると言われている。それを僕が拾った訳だ。
抜け落ちた恋矢を見たのは、今日が始めてだ。もっと見かけてもいいような気がするのだが、見かけないということは、もしかしたら食べてしまうのかもしれない。
カタツムリは時に殻の入り口に膜をはって眠るが、膜を破ってまた出てきた後に、破ったその膜を食べることがある。またカタツムリが歩くと粘膜の跡が残るが、その粘膜を食べることもある。
糞をしたら、糞は残るが、それ以外のものはほとんど残さない生き物なのだ。
カタツムリは、生態系の中では枯れ葉を分解したり、動物の骨や鳥の卵の殻を食べてしまったり、分解をする役割を果たすが、自分の痕跡もほとんど残さないのだから、さすが分解屋さんだ。
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2004.9.3(金) 命の大切さ
僕は生き物に接すると、感動したり嬉しかったりで、言いたいことがたくさん溢れ出てくる。だが、目立つことや人前に出ることは嫌いなので、写真家として出版の世界を選ぶことにした。本なら、自分の主張ができ、しかも人前に出る機会は少ないからだ。
その僕が、7月中旬から8月の中旬にかけてNHK福岡のテレビの取材を受け、その番組が今日放送される。人前に出たくないのだから、本当は一切ホームページでも触れたくなかったが、それでは制作に携わった人たちに失礼だし、先月、仕方なく放送の予定を日記の中で公開した。
ただ、本当はここ2〜3日も、「テレビに出ますよ!テレビに出ますよ!」と、強く強くアナウンスするべき立場なのだが、目立つのが嫌いな僕の気持ちを多少は汲んでもらってもいいだろうと、今度は黙っていることにした。半分自分を殺し、半分自分を立てる方法をとった。
さてさて、いつも取材をする側の人間が、取材を受けることになったのだから、
「取材を受ける側の気持ちがよく分かったでしょう!」
と投げかけてくる人がいるかもしれない。
だが、とんでもない。僕はその逆に、取材をする側の人を見つめることで、取材をする側の人のことが、よりよく分かったように思う。
まず取材をする側は、「こんな風なストーリーにしたい!」と、自分のイメージを持っている。それに近づけよう近づけようと、若干の誘導をするような側面がある。
それが良いか悪いかは、今の僕にはわからないので触れずにおこうと思う。ただ、いい誘導もあれば、悪い誘導もあるだろう。
自然や生き物と言うと、「命の大切さを伝える」という言葉を言わせたがり、誘導したがる人が多いが、今回、僕はその手の誘導を一度も受けなかったので、身を固くすることなしに、自然体で、取材を受けることができた。
僕は生き物が好きだが、命の大切さという言葉を気軽に使うことには抵抗を感じる。
例えば、家の中にゴキブリが現れたなら、多くの人が、そのゴキブリを殺すだろう。だが、いったいゴキブリにどんな害があるのか?と考えてみると、大した害はないのではなかろうか?病気の伝染等、実際にゴキブリが人の生活を脅かした例など、僕は聞いたことがない。
「ゴキブリを殺すな!」
といいたのではない。殺せばいいと思う。ただ、一方で命の大切さを主張し、一方で気持ち悪いという理由だけで殺すのだから、半端な命の大切さだな〜と、思う。そこまで考えずに主張された命の大切さ・命の重さと言う言葉は、なんて軽い言葉なのだろう。
もっと言おう。
では、言動と態度に矛盾が生じないように、ゴキブリをそっとしておいたとする。言葉だけでなく態度でも、命を大切にした。
しかし、ゴキブリも取材する昆虫写真家ならともかく、一般の人が黙ってゴキブリを見ていたなら、これまた実に奇妙な振る舞いではないか!だが、命を大切にすれば、そうなってしまうのだ。
命の大切さとは、なんて奇妙な言葉なのだろう?
では、あなたはいったい何を主張するのですか?と問われれば、
「まず生き物や自然を見て、知ろうとすることが大切ではないか?」
と、僕は答えたい。
それが役に立つとか害があるではなく、生き物っていったいなんだ?と、生き物を理解しようとする心が大切ではないだろうか?
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2004.9.2(木) 凄い勢いで
予定していた仕事が、2日分抜けることになった。ちょっとスケジュールが過密になり過ぎて訳がわからなくなりかかっていたので、実にありがたい。ホッとしたら饒舌になったようで、昨日深夜まで取り組んだセミの本用の原稿書きの続きが、凄い勢いで仕上がった。
なかなかいい本になりそうな予感がする。
「原稿を書いたり、写真をレイアウトする作業は嫌いではない」
と昨日書いたが、今回のセミの本も、パソコン上で本を作っていく時間がとても楽しかった。
僕はカメラを持つと、ちょっとばかり厳しくなり過ぎる傾向がある。これはダメ。これでもダメ。まだダメ。まだ撮れない!と、自分で自分にOKを出す敷居がとても高くなってしまう。
だから撮影が終わっても、終わった直後にはその日の撮影に納得ができないことが多い。どんなに快調に撮影が進んだ日でも、大抵は、
「なんだかしっくり来ないな〜」
と感じる。
そしてしばらく時間がたち、初めて自分の写真のいい面を評価できるようになる。改めて写真を見て、
「うん、なかなかいいじゃない。」
と感じるゆとりがやっと生まれる。
特に写真や文章をレイアウトしていくと、それまではただの写っているだけの写真が、突然に輝きだすことがある。そうなってくると、その時間はとても楽しい。
趣味で写真を撮っていた頃は、自分の写真を穴が開くほど何度も見つめた。が、最近は写真をまともに整理する時間さえなくて、ちらっと見ただけの写真が山積みされている。
自分の写真を改めて見る時間が少なくなると、撮影がしばらく時間がたって、
「うん、なかなかいいじゃない。」
と、自分の写真のいい面を評価するところまでは行き着かないことになる。
そうなると充実感が湧いてこないし、もっと日頃自分の写真をよく見なければ・・・と思うのだが、やっぱり日々の撮影に追われてしまうのだ。そのうち、いいペースを掴みたいものだ。
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2004.9.1(水) 原稿
セミの本を仕上げるために、原稿を書いたり、不足する写真を撮らなければならない。
今日は、5時起きで博多の町へと出かけ不足する写真を撮り、大急ぎで事務所に帰って、今度は写真をパソコン上でレイアウトしてみて、そこに文章を組み込んでみた。
どうも一日に書ける文章の量には限界があるようで、そうして原稿を書いた日には、日記の文章が上手く出てこないようだ。
写真を並べて文書を組み込むような作業は嫌いではないが、大変に時間がかかる作業だ。今日も、あと少し、あと少しと作業していたら、あっという間に夜の10時が迫ってきた。
よく考えてみたら、夕食も食べてない。さすがにお腹がすいてきた。
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